数か月前に読んだ本であったが、日々まとめている読書記録帳を修正している中で、ふと感慨深くなったものがあったので書き残していこうと思いブログ更新。
本書は著者の村上龍氏が30代半ばのころ、高校時代を描いた1987年の作品である。登場してくる人物のほとんどは実名であり、当時の社会や大人たちにおける、高校生らしいエネルギッシュな反発心を描いた作品となっている。
自分が印象深かったのは、この作品の内容もそうなのだが、巻末にある、村上氏のあとがきである。
-楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れない。
数少ない例外の教師を除いて、彼らは本当に大切なものを私から奪おうとした。
彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。
(中略)
唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。
1987年のあとがきでは、以上のように記されていた。
それと対比するように、改めて文庫化された際の2007年のあとがきが個人的に印象深い。2007年のあとがきでは、以下のように書き記されている。
-単行本のあとがきには他に、「楽しんで生きないのは、罪なことだ」と書かれてあって、時代を感じる。1987年、日本はまさにバブルに向かってまっしぐらに突き進んでいて、社会全体に根拠のない自信が充ち、多くの国民は強い円と経済の拡大がもたらす高揚感に浮かれていた。
(中略)
90年代初頭バブルが崩壊し経済は縮小して、冷たい水を浴びせかけられたように人々はユーフォリア(多幸感)から醒め、現実と向かい合うことになる。
そして今、若い人に向かって「楽しんで生きないのは、罪なことだ」とアドバイスする余裕は、私にも日本社会にももうない。現在必要なのは「どう楽しんで生きるか」ではなく、さらに基本的で切実な「どうやって生きるか」という問いだからだ。
『どう楽しんで生きるか』から、『どうやって生きるか』と言う問いになったという社会的状況は、確かに今も変わっていないかもしれない。
ただ、自分の中で少し違和感があったのは、それに続く以下の内容である。
-青春とは破天荒なものだとよく言われる。そもそも破天荒とは、荒れ地・不毛の地に変化をもたらすという中国の故事に由来している。現代の日本社会には成熟と洗練だけがあって、荒れ地・不毛の地は姿を消してしまった。ただひたすら技術とスキルと情報量でその価値を判断され、若者が冒険をするための社会的な余剰は失われた。
(中略)
変化が少ない成熟期の社会は、変化に対応することでエスタブリッシュメントに対抗する若者にはチャンスが少ない。
2007年度なので今からもう10年以上前のあとがきではあるが、当時50代半ばの村上氏にとって、若者のチャンスは少ないと感じていたのだろうか。
つい最近堀江貴文氏の本の感想を書いたから余計に対比的に感じたのかも知れない。
堀江氏は、『正しい情報』をしっかり持ち、『未来』を予想することで、自由で楽しい人生を歩めると主張していた。
自分もこの考え方に強く共感していたため、昔からファンであった村上氏のあとがきの、自分とは違う捉え方をしていたところが印象に残ったのだろう。
とはいえ、そんな村上氏も若者には、『時間という資源』を持っていると説く。
その資源を武器に、成熟社会をサバイバルしてもらいたいという主張には共感する。
コロナ後の新時代のために、『時間』という資源の大切さを身に沁みながらも、自分含めまだまだ働く期間が長い世代は、『正しい情報』をしっかり持ち、自由で楽しい人生を歩めるようにしたい。