中高時代の国語の恩師が、
『飢えた人間に文学は有効か?』
という問いかけを当時常に投げかけていた。
そのことに関して、自分はずっと頭の片隅に残っていたのですが、自分の敬愛する平野啓一郎氏が、同様の命題を投げかけており、これは読んでみようと思い、買わせていただきました。
これと同時期に刊行された、岩波新書の
『あなたが政治について語る時』
という新書も以前読んでいました(まだブログ書いてなかったので、今度書きます)が、今回は
『文学は何の役に立つのか?』
を読了。
『役に立つ』という、資本主義の中で用いられやすいワードと、『文学』が本当に相性がいいのかという考えも出てくると思うが、やはりそうした中でも平野氏はまず、
『今の世の中で正気を保つため』
に、ほとんどそのためだけのために、本を読んでいると述べている。
フェイクニュースがSNS上で蔓延し、それが政治をも左右する中で、言葉が非常に大きな混乱状態に陥っている。そうした中で、今こそ文学の意義が問い直される局面ではないか。
なるほど。私もストンと自分の中に落とし込んだ気がした。
平野氏は、自分も頭や心の中で抱えている、名状したい何かを、とても的確にスマートにいつも言語化してくれる。まさにその通りだと思った。
ただ、やはり文学はそうした一面だけではなく、突き詰めて考えると、やはり『文学は役に立つ』と言えるのではないだろうか。
未来のテクノロジーに関して、グローバル化によって、どこでどういうタイミングで何が起きているかがわかりにくい時代になると、何がいつ役に立つのかということの判断は容易ではないのかもしれない。そのように、平野氏は続けて述べている。
そもそも、『役に立つ』とは何だろうか?
社会の機能の一部になるということについて、僕たちには、手段としてこき使われていて嫌だ、という感覚がある一方で、しかし、社会の中で自分が何らかの『役に立っている』という実感を得て、承認欲求が満たされるという安堵も覚える。
そういう時に、『役に立つ』が、使われる。
また、時間的なコストと経済的なコストに関して、費用対効果的に見合うものかどうかということも、『役に立つ』という言葉が発せられる時の根本にある。
しかし、そうした『役に立つ』という、費用対効果を比較する言説に対し、やはり『文学』は、『役に立たなくても価値がある』と言い続けることが大事なのではないだろうか。
人間の話に関しても、我々は役に立つから社会にいていい訳ではなくて、基本的人権を認められていて、人間は存在するだけで、その存在自体を尊重されなくてはいけないという認識に立つべきだし、実際この国の憲法もそれを謳っている。
そういう意味で、文学に関しても、役に立つかどうかはともかく、価値があるということを何らかの形で表現していくことは重要ではないか。
他人を経由することによって、僕たちは、自分では引き受けきれないけれど本当は感じ取っているものを言葉にすることができる。
文学には、読んでいる時の他者への共感と、読み終わった後、読み終わった人同士が文学を解することによってより自由に、或いはより寛大に共感しあうという効果がある。
こうしたことも、『文学』を通じて、得られるものであろう。
世界が混とんとしており、生活にSNSが大きく存在感を示す中で、やはり文学に価値を見出すこと、それによって救われる人間というものも、やはりあるんじゃないかと、私は思っています。
平野さん、言語化してくださって本当にありがとうございます。