先月になりますが、10月19日から22日にかけて、大分旅行に行ってきました。
大分の知人に案内されながら、様々な場所を観光し、美味しいグルメを堪能。


豊後牛のステーキや、佐伯のお寿司は本当においしかったです。


別府の地獄蒸しプリンも二回目。
鍾乳洞なども探検し、非常に有意義な時間を過ごすことができました。
来年以降も、機会を見つけていきたいと思います。
『鴻巣:他者と関係を結ぶことについて、ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロは「横の旅」と「縦の旅」という言葉で説明しています。
グローバルな時代において、リベラルなインテリたちは「横の旅」をする。
つまり、世界に飛び出していってさまざまな知識人と意見交換をしたりするのだけれど、それは結局、同じ階層の人たちと話し合って「そうだね、そうだね」とうなずきあっているに過ぎない。そうではなく、「縦の旅」をしようとイシグロは言っています。
(中略)
ですから、まったく意見が異なるような人、「フェミニズムって何ですか?」という人とお話しするほうがずっと難しい。野枝が「縦の旅」に踏み出した意義は、とても大きいと思います。』
本書の語り手である、加藤陽子、鴻巣友季子、上間陽子、上野千鶴子各氏の特別座談の中で、鴻巣氏はこのように語りかけている。
引用元を個人的に調べましたが、おそらくここでカズオ・イシグロ氏が語っている部分のことだと思われます。
イシグロ氏のこの発言、非常に考えさせられる部分が多いのではないのでしょうか。
自分は男性ですが、フェミニズムの課題は、全人類で考えないといけないものだと思っています。
自分の政治スタンスはリベラルですが、イシグロ氏のいうように、自分の価値観と近い、『横のつながり』の人と話すことは非常に心地がいい。
ただ、『横のつながり』だけでは、フェミニズムの課題を克服できないのかもしれません。
そうした意味で、当時の階級社会の日本で、知識人であった伊藤野枝が、『縦の旅』に果敢に挑戦しようとしたのは非常に学ぶべきことが多いと思いました。
自分の近くに住んでいる人でも、まったく違う価値観の世界に生きているような人と繋がること、自分も実生活の中で意識していきたいなと思います。
お疲れ様です、スナフキンです。
本日は有休をいただきまして、少しゆっくり気分転換しようと思い、都心で遊んできました。
都内の美術館は、月曜日が休館日のことが結構多いのですが、六本木にある国立新美術館は本日開館していたので、そちらのほうに伺ってきました。
本日は
という特別展を鑑賞。
個人的に大好きなターナーは、文学のシェイクスピアと対照的に、美術のターナーとして英国美術の頂点に位置付けられており、その作品が観られるのはいいなと思い、楽しみにして行きました。
英国風景画を支えた美学の一つに、『ピクチャレスク』というものがあります。
ピクチャレスクとは、なめらかで整った『美(ビューティフル)』とは異なり、荒々しさや不規則性、突然の変化などに独自の美的価値を認める感性を指すものとされます。
ターナーの初期の絵画の多くは、このようなピクチャレスクの熱の高まりを感じさせます。
今回の特別展では、『湖に沈む夕日』が非常に印象的でした。
ターナーだけでなく、光にまつわる現代アーティストの作品も非常に多くありました。
閉会も近く、平日なので比較的人はまばらなのかなと思いきや、想像以上の盛況ぶり。
ここまで人が多いとは思いませんでした。
ランチは東京ミッドタウンの『ニルヴァーナ ニューヨーク』でカレービュッフェ。
天気も良く、ワインを飲みながらテラス席で静かに食べるランチは最高でした。
今回ご紹介するのは、木下古栗氏著の
『グローバライズ』
という本。
友人が読んでいて、興味を持って自分も読んでみたいと思った作家さんです。
読了後、非常に斬新かつ複雑な気分に襲われました。笑
木下氏の小説を、どのように表現していくか非常に難しいです。
一般人が表現したら、下ネタ、変態、異常性ともとれるような内容を、芸術と言う枠組みにまで昇華するところが、何か癖になってしまう。
「この文章は何か違う」という強烈な違和感が、とても病みつきになってしまう。
本書における、木下古栗のインタビューでも、
『昔、知らない本をパッと開いて読んだ時に感じた「この文章は何か違う」という衝突、距離感があってほしい。』
と述べています。
本書の『グローバライズ』の由来も、
『各編が何となく連なるような感覚で「グローバライズ」にした。「グローバル」とか「グローバル化」という言葉は薄っぺらく濫用されがちだと思うが、そういう軽い言葉としての感覚。』
という意味合いがあるようです。
非常に不思議なのですが、少し病みつきになってしまう感覚が忘れられない作家さんであります。
NHKテキストの『100分de名著』シリーズは、読みたいものが非常に多いです。
今回紹介する、ボーヴォワールの
『老い』
は、邦訳で二段組の上下巻、総ページは700ページ超という大著なのですが、上野千鶴子氏がとても分かりやすく解説してくださっています。
ボーヴォワールは、
『老いは文明のスキャンダルである』
と表現しました。
現代社会において老人は人間として扱われていない、老人の人間性が棄損されている、ということへの怒りから、ボーヴォワールは『老い』を書いたといいます。
本書の中でボーヴォワールは、老いを多角的に考察しています。
特に注目されるのは、歴史も社会も個人もが、老いをいかにネガティブに扱ってきたかを事例やデータをもとに示しながら、それがいかに不当なことであるかを書いているところにあります。
老いは誰にも避けられない。
なのに、なぜその過程を否定しなければならないのだろうか。ボーヴォワールは強く問題提起を行います。
しかしながら、どうすれば豊かな老いを生きることができるかは、本書には書かれていない。
それは個人が乗り越える問題ではなく、文明が引き受けるべき課題だとボーヴォワールは考えていると、上野氏は解説します。
老いは衰えではありますが、だからと言ってみじめではない。
老いをみじめにするのは、そう取り扱う社会の側である。
役に立てないからと厄介者扱いするのではなく、役に立てないと絶望するのでもなく、わたしたちは老いを老いとして引き受ければいい。
それを阻もうとする規範、抑圧、価値観が何であるかを、ボーヴォワールの老いは私たちに示してくれている。
誰にも避けられない『老い』を否定的にとらえるのではなく、確実に迎えるステージだとして前向きに捉えられる社会構造の構築が必要なのではと思います。
―私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、-5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。
Twitterのとあるツイートで引用されていた、本書の内容。強烈な衝撃を受けたのを覚えています。
今回紹介するのは、第169回芥川賞受賞作、市川沙央氏著
『ハンチバック』
という小説。
筆者は筋疾患先天性ミオパチーという難病を罹患し、背骨が弯曲する症候性側弯症に伴い、人工呼吸器と電動車椅子を常用されている障害者である。
本書の主人公の井沢釈華も、同じ障害を抱えた人物として登場し、そうした主人公の視点をもとに、健常者の特権性や、障害者自身の本来の、生々しい人間性を描き出している。
―〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉
(中略)
〈でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉
(中略)
〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉
生きることが非常に困難な人生の中で、自分はどう爪痕を残していきたいか。
何不自由なく五体満足で生活している人間には、到底気づくことも出来ない、健常者自身の傲慢さを、生々しい内容が展開することで、浮き彫りにしてくれる。
また、筆者が答えた、インタビューも非常に印象深かった。
―十代半ばから月刊「正論」読者でもあった私のような筋金入りの人間に対して、読書バリアフリーを訴えるマイノリティな身体障害者という面だけを見て、こいつは反日だの、左の活動家だのと、ずいぶん皮相浅薄なことを言ってくるものだと悲しくなった。
それ以上に、昨今SNSが媒介する社会分断の深刻さはまことに嘆かわしいものがある。
こういう時代にこそ人の心に想像力を養う小説という文化の力を逞(たくま)しくしていかなければならないと、芥川賞作家としては多少しらじらしくても言うべきだろうか。
(中略)
差し迫る国難を見据えなければならない時代に、右か左か敵か味方かをインスタントに判断して両極端に分裂したがる安易な分断現象をこのまま放置していてよいとは私には到底思えない。れっきとした国家の脆弱(ぜいじゃく)性だろう。
人口減少の社会では、ただ一人の生きる力の取りこぼしもあってはならない。保守派の包摂的な寛大さと対話能力が今こそ我が国のために発揮されることを心から願うし、私も相互理解を試み続けていきたい。
10代の頃から『正論』の読者だという、筋金入りの保守本流の人が、社会分断の深刻さに警鐘を鳴らし、想像力を養う文学の重要性を訴えるのは、非常に説得力がある。
自分の知性も、引きずられて劣化しないように、自身も積極的に文学の力を磨いていきたい。
―短歌は、日々の心の揺れから生まれる。どんなに小さくても「あっ」と心が揺れたとき、立ち止まって味わいなおす。その時間は、とても豊かだ。歌を詠むとは、日常を丁寧に生きることなのだと感じる。(P.179)
イーロン・マスク氏が、親しみのあったTwitterの名称とロゴを、Xに変更したことに伴い、俵万智氏が詠んだ短歌が、SNS上で非常に反響を呼んだ。
「言の葉を ついと咥(くわ)えて 飛んでゆく 小さき青き鳥を忘れず」
「このままで いいのに異論は 届かない マスクの下に唇をかむ」
ここまで完璧な短歌を、ビシッと詠んでしまう俵万智氏のセンスには脱帽するばかりだ。
あまり偶像崇拝的な形で評価したくはないが、改めて俵氏の詠む歌を味わいたいと思い、歌集を購入しました。
歌集では、5年ほど住んだ石垣島や、縁あって移り住んだ宮崎での生活の中で詠んだ歌、またコロナ禍になってからはそれに関係する歌を詠んでいる。
俵氏の言葉を借りて言えば、日常は、ありふれたことが、実は奇跡的なバランスの上に成り立っている。
忙しい日常の中に、心の豊かさを持って行きたい。