ライフスタイルの多様性は都会だからこそ許されるのであろうか。
自分の価値観を重視し、自由に人生を生きるのは『傲慢』なのだろうか。
帯拍子で、
〈『人生で一番刺さった小説』との声、続出〉
とのタイトルに惹かれ、書店で購入した辻村深月氏の小説。
恋愛や婚活にまつわる小説でありつつ、個人の生き方の本質までかなり緻密に踏み込んでおり、登場人物と同世代な自分は、考えさせられることの多い、印象深かった小説でありました。
婚約者が突然姿を消し、婚約相手の主人公は、彼女の居場所を探すために、彼女の『過去』を遡り、向き合うことになる。
そして向き合う中で、主人公は、現代社会の生きづらさの根源を突き付けられることになるという小説。
『高慢と偏見』という、ジェーン・オースティンという作家の小説がある。
18世紀末から19世紀初頭のイギリスの田舎での結婚事情を描いたものであり、“究極の結婚小説”と小説内では紹介される。
当時は恋愛するのにも身分が大きく関係していた。
身分の高い男性がプライドを捨てられなかったり、女性の側にも相手への偏見があったり、それぞれの中にある『高慢と偏見』のせいで、恋愛や結婚がなかなかうまくいかなかった。
対して、現代の結婚が上手くいかない理由は、『傲慢さと善良さ』にあるのではないだろうかと問いかける。
現代の日本人は、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆が傲慢。
その一方で、善良に生きている人ほど、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。
『傲慢さと善良さ』が、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代になっている。
自分は『傲慢』はあっても、自分の頭でなんでも考えたいタイプなので、『善良』ではないかなとは思う。
なので、両者が共存しているという感覚はちょっと分からない部分もあったのですが、少なくとも、自分の生きたいように生きても、周りの社会的同調圧力みたいなもので、そうした自由さえも白い目でみられるとしたら、それは何か社会として不健全だなあと強く感じます。
自分も過去に、数か月だけ地方に住んだことはありますが、かなり保守的な地域だと、やはりそうした同調圧力は強いのでしょうか。
自分はいつでも、のびのび生きたいと誓っています。