先日のとある記事で、ちょっと気になるものがあったので、今回はそれに関して検証をしたいと思います。
内容としては、元2ちゃんねる管理人で、実業家の『ひろゆき』氏が、
『古文・漢文はもはや不必要で、それ以外の教育と入れ替え、古文・漢文に関しては、やりたい人がやればいい』
という主張が展開されていたのですが、それに関して、同意の声が多かったということで、自分自身思うところがあり、今回ブログを書かせていただきました。
内容としてはこんな感じです。
-元2ちゃんねる管理人で実業家のひろゆき氏がブチ上げた古文・漢文「オワコン論」がネット上で大きな話題となっている。
古文・漢文は大学入試でも扱われ、四苦八苦した受験生も多いハズ。
そんななか、ひろゆき氏は19日にツイッターで「古文・漢文は、センター試験以降、全く使わない人が多数なので、『お金の貯め方』『生活保護、失業保険等の社会保障の取り方』『宗教』『PCスキル』の教育と入れ替えたほうが良い派です」と提言。続けて「古文漢文はやりたい人が学問としてやればいいだけで必須にする必要ないかと」と私見と綴った。
「オワコン論」がネット上で大きな話題となっている。
正直、こうした『古典不要議論』は、昔から少なからずあったのだと思います。
ただ、改めてこうして問題提起をされると、これに対して真っ向から理論的に反論できる論拠を挙げられるわけではなく、自分自身、色々考えてしまいました。
ただ、何れにしても、こうした主張に対して、やはり個人的に違和感を覚えるのは事実なのですね。
確かに、『ひろゆき』氏の言う、お金やPCスキル、宗教などと言った『実学志向』重視の考え方は、決して一概に間違っているとは言えないと思えます。
しかしながら、これは自分の中でゆるぎないものとして主張できるのですが、
『本来イノベーションは、徹底した基礎の反復・反芻の中で生み出されるもの』
ではないかな、と思っています。
古文・漢文と言った古典派は、間違いなく、人生を生きる上でのヒントを提供してくれると思っています。
そしてその根底にある本質は、実学的な損得勘定で判断できるものではないが、決して無下には出来ない、重要なものであると自覚しています。
もし、今後日本が人的資本の質の向上を図るなら、最低限の基礎としての古典の知識は必要なのではないか、決して誇張ではなく、そのように感じます。
一見意味の無いようなものが、じつは本質的に大事だったりする、そうしたものであるのかなと思います。
とはいえ、『ひろゆき』氏の言う、実学に関する教育の在り方は議論されても良いのかもしれません。
古典と実学。これらを二律背反のモノとして捉えるのではなく、お互いに連関し合う重要なファクターとして考えることこそ、これから求められる姿勢なのではと感じました。