お疲れ様です、スナフキンです。
先日1年前のブログを見返していると、自分が好きな百人一首について語っている記事がありました。
古典を味わう魅力っていうのは自分でも重々理解しているのですが、日常生活で忙しくなると、そうした体力のいる分野は避けがちになります。
ただ、本年は昔読んだ本も読み返しながら、知識に深みを持たせたいと思っています。また、自分の好きな百人一首の紹介を継続して行って行きたいと思います。
本日紹介するのは、自分が歴史上の人物でも非常に人間味があって素敵な清少納言の和歌です。
〈第62番〉
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
(清少納言)
(訳:まだ夜の深いうちに鶏の鳴き声をまねて上手くだまそうとしても、中国の函谷関ならともかく、あなたと私の間にある逢坂の関は決して通ることを許さないでしょう。)
清原元輔の娘であり、一条天皇の皇后、中宮定子に仕えた、歴史上超有名な人物でありますが、私は古文を学び始めた中学生の頃から、彼女の魅力を感じていました。
学問的にも、『源氏物語』を著した紫式部と対比されることが多いけれど(『源氏物語』はまたそれでもちろん好き)、私が思う清少納言の好感が持てる特徴は、
『教養の高いインテリ感や才能を、全く包み隠そうとしなかった自己主張の強さ』
にあると思います。
そうした彼女の人柄が、この和歌にはメチャクチャにじみ出ているので、私はこの和歌がとても記憶に残っています。
この和歌は、書の名手・藤原行成とのやり取りの一部。
ある日の夜、二人は話をして非常に盛り上がる。しかし行成は、宮中の物忌みを理由に清少納言を残し帰ってしまう。
翌朝、行成から、
『昨日は鶏が鳴いたから帰ったのだよ。』
と言い訳の手紙が届く。
聡明な清少納言は中国の故事を引き合いにして、
『鶏とは、鶏の鳴き声で、函谷関を開けさせたという、鶏でしょう?』
と機知に富んだ皮肉を言う。
行成はその気の利いた返事に対し、喜びのあまり、
『違います。函谷関ではなく、逢坂の関(男女の仲を暗示)ですよ。』
と色気づいて返事をする。
すると清少納言はすかさず、
『あなたと逢坂の関なんか通りません!』
とピシャリと言い返したのが、この歌だ。
この和歌で言う『鶏』とは、中国の故事『孟嘗君』を踏まえている。
斉の孟嘗君が、秦を脱出して函谷関に差し掛かった時、部下の一人が鶏の鳴きまねをして、それに騙された門番が門を開けて脱出に成功したというお話。
つまり、清少納言は、単に行成の軽い誘いに断るだけでなく、
『私は女性だけども、中国の故事も知っているんですからねっ!』
という、非常にインテリな部分をさらけ出しているのが痛快なところ。
自分も割と、普段自己主張が強い人間なので、こうした時空を超え、古典からにじみ出るキャラクター性を味わえるのは、古典を学ぶ醍醐味なのかなと思っています。
清少納言の評価って、個人的な好き嫌いは分かれるかもしれないのですが、少なくとも私は大ファンです。
『枕草子』のあのキラキラした輝きを思い浮かべながら、この和歌を詠むとまた深い味わいが出てくる感じがします。清少納言関連の本も色々読んでみようと思います。
また今後、好きな和歌を紹介したいと思います。