とりま文系歯科医師が自己投資。

読書好きな開成、一橋大卒文系出身歯科医師のマイペースブログ。読書を中心に学んだ知識をアウトプットすることで、何か社会が少しでも変わればなと思い開設。好きなテーマは小説全般、世界史、経済学、心理学、経済投資など。筋トレも趣味です。

読書感想:『グローバライズ』

 今回ご紹介するのは、木下古栗氏著の

グローバライズ

という本。

 

 

 友人が読んでいて、興味を持って自分も読んでみたいと思った作家さんです。

 

 読了後、非常に斬新かつ複雑な気分に襲われました。笑

 木下氏の小説を、どのように表現していくか非常に難しいです。

 一般人が表現したら、下ネタ、変態、異常性ともとれるような内容を、芸術と言う枠組みにまで昇華するところが、何か癖になってしまう。

 

「この文章は何か違う」という強烈な違和感が、とても病みつきになってしまう。

 

 

 本書における、木下古栗のインタビューでも、

『昔、知らない本をパッと開いて読んだ時に感じた「この文章は何か違う」という衝突、距離感があってほしい。』

と述べています。

bookshorts.jp

 

 本書の『グローバライズ』の由来も、

『各編が何となく連なるような感覚で「グローバライズ」にした。「グローバル」とか「グローバル化」という言葉は薄っぺらく濫用されがちだと思うが、そういう軽い言葉としての感覚

という意味合いがあるようです。

 

 非常に不思議なのですが、少し病みつきになってしまう感覚が忘れられない作家さんであります。

読書感想:『100分de名著 ボーヴォワール 老い』

 NHKテキストの『100分de名著』シリーズは、読みたいものが非常に多いです。

 

 今回紹介する、ボーヴォワール

『老い』

は、邦訳で二段組の上下巻、総ページは700ページ超という大著なのですが、上野千鶴子氏がとても分かりやすく解説してくださっています。

 

 

 

 ボーヴォワールは、

『老いは文明のスキャンダルである』

と表現しました。

 現代社会において老人は人間として扱われていない、老人の人間性が棄損されている、ということへの怒りから、ボーヴォワールは『老い』を書いたといいます。

 

 

 本書の中でボーヴォワールは、老いを多角的に考察しています。

 特に注目されるのは、歴史も社会も個人もが、老いをいかにネガティブに扱ってきたかを事例やデータをもとに示しながら、それがいかに不当なことであるかを書いているところにあります。

 

 老いは誰にも避けられない。

 なのに、なぜその過程を否定しなければならないのだろうか。ボーヴォワールは強く問題提起を行います。

 

 

 しかしながら、どうすれば豊かな老いを生きることができるかは、本書には書かれていない。

 それは個人が乗り越える問題ではなく、文明が引き受けるべき課題だとボーヴォワールは考えていると、上野氏は解説します。

 

 老いは衰えではありますが、だからと言ってみじめではない。

 老いをみじめにするのは、そう取り扱う社会の側である。

 

 役に立てないからと厄介者扱いするのではなく、役に立てないと絶望するのでもなく、わたしたちは老いを老いとして引き受ければいい。

 それを阻もうとする規範、抑圧、価値観が何であるかを、ボーヴォワールの老いは私たちに示してくれている。

 

 誰にも避けられない『老い』を否定的にとらえるのではなく、確実に迎えるステージだとして前向きに捉えられる社会構造の構築が必要なのではと思います。

読書感想:『ハンチバック』

―私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、-5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

 

 Twitterのとあるツイートで引用されていた、本書の内容。強烈な衝撃を受けたのを覚えています。

 

 今回紹介するのは、第169回芥川賞受賞作市川沙央氏著

『ハンチバック』

という小説。

 

 

 筆者は筋疾患先天性ミオパチーという難病を罹患し、背骨が弯曲する症候性側弯症に伴い、人工呼吸器と電動車椅子を常用されている障害者である。

 本書の主人公の井沢釈華も、同じ障害を抱えた人物として登場し、そうした主人公の視点をもとに、健常者の特権性や、障害者自身の本来の、生々しい人間性を描き出している。

 

―〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉

(中略)

〈でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉

(中略)

〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉

 

 生きることが非常に困難な人生の中で、自分はどう爪痕を残していきたいか。

 何不自由なく五体満足で生活している人間には、到底気づくことも出来ない、健常者自身の傲慢さを、生々しい内容が展開することで、浮き彫りにしてくれる。

 

 また、筆者が答えた、インタビューも非常に印象深かった。

www.sankei.com

 

十代半ばから月刊「正論」読者でもあった私のような筋金入りの人間に対して、読書バリアフリーを訴えるマイノリティな身体障害者という面だけを見て、こいつは反日だの、左の活動家だのと、ずいぶん皮相浅薄なことを言ってくるものだと悲しくなった。

 

 それ以上に、昨今SNSが媒介する社会分断の深刻さはまことに嘆かわしいものがある。

 こういう時代にこそ人の心に想像力を養う小説という文化の力を逞(たくま)しくしていかなければならないと、芥川賞作家としては多少しらじらしくても言うべきだろうか。

(中略)

 差し迫る国難を見据えなければならない時代に、右か左か敵か味方かをインスタントに判断して両極端に分裂したがる安易な分断現象をこのまま放置していてよいとは私には到底思えない。れっきとした国家の脆弱(ぜいじゃく)性だろう。

 人口減少の社会では、ただ一人の生きる力の取りこぼしもあってはならない。保守派の包摂的な寛大さと対話能力が今こそ我が国のために発揮されることを心から願うし、私も相互理解を試み続けていきたい。

 

 

 10代の頃から『正論』の読者だという、筋金入りの保守本流の人が、社会分断の深刻さに警鐘を鳴らし、想像力を養う文学の重要性を訴えるのは、非常に説得力がある。

 自分の知性も、引きずられて劣化しないように、自身も積極的に文学の力を磨いていきたい。

読書感想:『未来のサイズ』

 ―短歌は、日々の心の揺れから生まれる。どんなに小さくても「あっ」と心が揺れたとき、立ち止まって味わいなおす。その時間は、とても豊かだ。歌を詠むとは、日常を丁寧に生きることなのだと感じる。(P.179)

 

 イーロン・マスク氏が、親しみのあったTwitterの名称とロゴを、Xに変更したことに伴い、俵万智氏が詠んだ短歌が、SNS上で非常に反響を呼んだ。

 

「言の葉を ついと咥(くわ)えて 飛んでゆく 小さき青き鳥を忘れず」

 

「このままで いいのに異論は 届かない マスクの下に唇をかむ」

 

 ここまで完璧な短歌を、ビシッと詠んでしまう俵万智氏のセンスには脱帽するばかりだ。

 あまり偶像崇拝的な形で評価したくはないが、改めて俵氏の詠む歌を味わいたいと思い、歌集を購入しました。

 

 

 歌集では、5年ほど住んだ石垣島や、縁あって移り住んだ宮崎での生活の中で詠んだ歌、またコロナ禍になってからはそれに関係する歌を詠んでいる。

 

 俵氏の言葉を借りて言えば、日常は、ありふれたことが、実は奇跡的なバランスの上に成り立っている。

 忙しい日常の中に、心の豊かさを持って行きたい。

 

読書感想:『傲慢と善良』

 ライフスタイルの多様性は都会だからこそ許されるのであろうか。

 自分の価値観を重視し、自由に人生を生きるのは『傲慢』なのだろうか。

 

 帯拍子で、

〈『人生で一番刺さった小説』との声、続出〉

とのタイトルに惹かれ、書店で購入した辻村深月氏の小説。

 

 恋愛や婚活にまつわる小説でありつつ、個人の生き方の本質までかなり緻密に踏み込んでおり、登場人物と同世代な自分は、考えさせられることの多い、印象深かった小説でありました。

 

 婚約者が突然姿を消し、婚約相手の主人公は、彼女の居場所を探すために、彼女の『過去』を遡り、向き合うことになる。

 そして向き合う中で、主人公は、現代社会の生きづらさの根源を突き付けられることになるという小説。

 

高慢と偏見という、ジェーン・オースティンという作家の小説がある。

 18世紀末から19世紀初頭のイギリスの田舎での結婚事情を描いたものであり、“究極の結婚小説”と小説内では紹介される。

 当時は恋愛するのにも身分が大きく関係していた。

 身分の高い男性がプライドを捨てられなかったり、女性の側にも相手への偏見があったり、それぞれの中にある『高慢と偏見』のせいで、恋愛や結婚がなかなかうまくいかなかった。

 

 対して、現代の結婚が上手くいかない理由は、『傲慢さと善良さ』にあるのではないだろうかと問いかける。

 

 現代の日本人は、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆が傲慢

 その一方で、善良に生きている人ほど、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。

傲慢さと善良さ』が、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代になっている。

 

 

 自分は『傲慢』はあっても、自分の頭でなんでも考えたいタイプなので、『善良』ではないかなとは思う。

 

 なので、両者が共存しているという感覚はちょっと分からない部分もあったのですが、少なくとも、自分の生きたいように生きても、周りの社会的同調圧力みたいなもので、そうした自由さえも白い目でみられるとしたら、それは何か社会として不健全だなあと強く感じます。

 

 

 自分も過去に、数か月だけ地方に住んだことはありますが、かなり保守的な地域だと、やはりそうした同調圧力は強いのでしょうか。

 

 自分はいつでも、のびのび生きたいと誓っています。

読書感想:『動物農場』

 最近色々とドタバタしていて、読書はしてはいるのですが、読書感想を書くペースがおざなり勝ちになっているスナフキンです。

 

 今回は、ディストピア小説で有名な、ジョージ・オーウェルの作品で、代表作『一九八四年』と並ぶ、もう一つの代表作をご紹介したいと思います。

 

 今回紹介する作品は、

動物農場

と言う作品。

 

 

 とある農場で飼いなさられていた多くの動物たち。

 動物たちは、老いたブタのメイジャーを指導者に仰ぎながら、

『すべてのどうぶつは平等』

という理想を実現するための、自分自身による、ユートピアの農場、『動物農場』を建設しようとする。

 

 農場は共和国となり、年老いた指導者ブタ、メイジャーは亡くなる

 その後、知力の優れたブタのナポレオンが大統領に選ばれ、多くの動物の指導を行っていく。

 

 しかしながら、権力を得た特権階級のブタは、次第に元々の戒律を変更していき、邪魔になった対立相手を共和国から追放、仮想の敵を作りながら、次第に動物たちを洗脳していく、という作品。

 

 当初の大義名分は、『支配していた人間たち』から自立する、というものであったはずなのに、いつの間にかそれが大きく変容していき、結末を迎えるという非常に皮肉めいた作品となっています。

 

 当時この作品が、本来直接の題材及び批判対象としていたのは、ロシア革命と、その後のスターリニズムに続くソ連社会主義の倒錯にありました。

 

 レーニンによるロシア革命

 そしてレーニン死後、スターリントロツキーの対立により、トロツキーが追放。その後、スターリン自身の権力を脅かす相手を次々と粛清し、神格化を進める。

 しかし、世界に社会主義革命を広げようと画策する一方で、仇敵であったはずの米国や英国と、協力するようになる。

 

 

 本書で書かれている物語が、まさにソ連の歴史の強烈な風刺だったということが、読みながら強く分かります。

 

 

 しかしながら、こうした権力側の政治手法は、決して過去のものではありません。

 仮想の敵を作り上げ、最終的には自分の権力を強大化させる政治手法は、今の日本にもあるのではないでしょうか。

 

 古典的ディストピア小説を読みながら、そうした危険性を今の政治もはらんでいるのでは、と思いました。

アーティゾン美術館に行ってきました。

 昨日お休みをいただき、日本橋アーティゾン美術館で現在開催されている、

「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展

を鑑賞してきました。

www.artizon.museum

 

 

 19世紀末のフランスを中心としたヨーロッパ、芸術を生み出す活気と自由な雰囲気に満ち溢れる中、フォーヴィスムキュビスムなどの新しい美術が芽吹きました。

 その後、表現の到達点のひとつとして抽象絵画が誕生しましたが、今回はその抽象絵画の全世界に渡る発展と展開を紹介した、美術展になります。

 





 抽象絵画も、正直自分の脳の中での理解って非常に難解な部分があります。

 ただ、自分の思考回路の中で、整理のつかない中でも、なにか心の琴線に触れる作品に出逢えると、非常に嬉しくなります。

 

 作品の数もかなり多く、体力的にもなかなかタフな美術展だと思います。

 もう一度行っても良いかな、と思える美術展でした。

 

 大好きなお店のエビフライも食べられて満足。

 

 充実した休日でした。

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