お疲れ様です、スナフキンです。
日本の古典文学に触れる機会を増やしていますが、今回紹介するのは、古典に造詣のある方ならご存知の『三十六歌仙』であります。
三十六歌仙と言うものは、元々単独の作品としては存在していなかったといいます。母体は、藤原公任撰の『三十六歌撰』であり、百人一首よりも200年前、源氏物語と同時代に編纂された秀歌撰のことを指します。
近世まではかなり広く流布されていたようですが、明治以降になると、急速に時代が変化。
百人一首はかるた遊びと融合することで命脈を保った一方、三十六歌仙は学びの場が寺子屋から小学校に変遷したことで、学習する場が消失し、知名度を大きく下げました。
自分自身、『三十六歌仙』の名前自体は知っていたものの、内容に関しては全く知りませんでした。
ただ、百人一首の魅力を追求していくと、必ず『三十六歌仙』にたどり着きますし、『三十六歌仙』に選ばれた和歌が、『百人一首』にも撰ばれていたりします。
今回はその中で、気になった作品を少しご紹介したいと思います。
【紀貫之】
・さくらちる 木の下風は さむからで そらにしられぬ 雪ぞ降りける
(桜が散る木の下をふく風は寒くはないが、天のあずかり知らぬ雪(桜のはなびら)が降っていることよ)
梅の場合、枝に積もった雪は、花(白梅)に見立てられ、春の訪れを望むものである一方、桜では落花(散る花)を降雪にみたてている。雪を花に見立てるか、花を雪に見立てるかの違いだが、この先人たちの想像力に非常に脱帽。
【在原業平】
・代の中に たえてさくらの なかりせば はるのこころは のどけからまし
(いっそのこと世の中に桜がまったくなかったとしたら、春の心はどんなにのんびりしたものだろうか。(でも現実にはのどかにはいられない))
春と言ったら桜が当然のものとして想定されるとは思うのだが、さすが業平である。それが無いという想像力と、逆に桜がない場合、春は心穏やかなのだという想像の先を超えた発想が素敵だと思いました。
今後も百人一首を含めた、和歌の魅力に触れていきたいと思います。