お疲れ様です、スナフキンです。
百人一首をキッカケに、日本の和歌に関して少し興味を持ち始めたのですが、今回は日本歌人の選集の中から、日本近代文学に多大な影響を与えた、石川啄木の歌に関しての本を読んでみました。
石川啄木、自体は子供のころから名は知っていますし、何首か目にしたこと自体はあったのですが、こうしてじっくりと歌集を読んだのは初めてでした。
啄木自身は短歌について、「一利己主義者と友人との対話」と言う歌論なかで、「一生に二度とは帰ってこないいのちの一秒」を逃さないための、「形が小さくて、手間暇のいらない」便利なもの、と定義したそうです。
このように形容されると、確かに短歌とはそのかけがえのない一瞬を残すことのできる、独特で素敵なものだと感じられますよね。
有名な短歌に関しても、じっくり読み込んでいくと、新しい発見が見られるものだなと思いました。
〈ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにいく〉
(現代語訳:ふるさとの、訛りがとてもなつかしい駅の、人ごみの中にそれをききに出かけるのである)
啄木の中でも非常に有名な短歌であり、今でも上野駅には、東北本線が発着する十五番線にこの歌を刻んだ碑があるらしいです。今度確認したいと思います笑
ただ、今回の歌集の筆者であり、東京都立産業技術高等専門学校准教授の河野有時氏は、上野駅がこの歌の光景として本当に適切だろうか、と本の中で問うています。
確かに、東北出身の啄木の個人歴を背景とするなら、この停車場は東北本線の起点、上野駅ということになるでしょう。
しかしながら、故郷の訛りがなつかしくなって、上野駅の雑踏の中に、それを聴きに行くとしたら、この歌い人は、『駅の雑踏を恋しく思うくらい、地方出身者として、都会のどこかで寂寥感を感じている』のではないでしょうか。確かに、思えばそちらの方が、合点がいく。
自分がこの歌を知ったのは小学生でしたが、当時は、さすがに上野駅とは認識はしていませんでしたが、駅の人ごみの中で、それを聴きにいこうとふらふらしている男の姿を想像していました。
こうやって時間を超えて、昔触れた作品を精読すると、新しい発見が出来るのも、文学の魅力だと思いました。
もう一つ、自分が良いなと思った歌を紹介。
〈非凡なる 人のごとくに ふるまへる 後のさびしさは 何にかたぐへむ〉
(現代語訳:非凡な人がするように振る舞った、後のさびしさは、いったい何にたとえられようか)