不思議なことだが、悲しみ、もしくは悲しみの記憶は、ふいに、その当人に近づき、背後から全身を抱擁するかのようにやって来る。
(中略)
-あれ、今、私笑っていた?
こうなれば回復は早い。早いのだけど、冒頭に書いた二行がやって来るのである。
嘘ではないし、いつまでも悲しみを忘れられない、その人がおかしいことでもない。
人間とは、そういう生きものであり、人生とは悲しみと、必ず遭遇するものである。
お疲れさまです。スナフキンです。
伊集院静氏の『大人の流儀』シリーズの最新刊、
『大人の流儀11 もう一度、歩きだすために』
の一節です。
週刊誌に連載したコラムをまとめた、『大人の流儀』シリーズも、最新作で十一冊目らしいです。非常に長いシリーズになっていますね。
冒頭でも伊集院氏が述べていますが、好評の理由として考えられることと言えば、最初の5年は、あの東日本大震災が何だったのかを考え、書き続けたことにあるのではないか、と述べています。
そして今は感染症のコロナ。
東日本大震災を、間近で体験した筆者の経験を踏まえると、災いの真っただ中に身を置いた人々は、哀しみの連鎖に揺さぶられることが多かったのではないかと述べています。
そんな悲しみに対して、人間はどうすればよいのか。
筆者は、皆と手を取り、立ち上がり、歩みだそうという考えを持つこと、そして日々を懸命に生きていくことこそが重要と捉えています。
『体調がよくなれば、立ち上がって歩きだそう』と言う意志をしっかり備えておくこと、自分も、心の中に、そうした強い意志を養う必要があるのだなと感じました。
厳しいことばかりはカンベンして欲しい。
-厳しいことが続く年がありましたか?
なくはない。それは人生だもの。皆と同じだし、私などラクな方だったのではと思う。
誰しもが厳しい時間を経験している。
皆そういうものを乗り越えて、今朝も、夕べも街のどこかを、町の小径を、平然と歩いているのが、世間というものらしい。
“人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。”